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当コーナーでは、当サイトの運営を担当させていただいている担当者が日々の活動の中で遭遇し、
感動した出来事等を掲載させていただいています。
   
  ◎ NGOの政策提言活動から
       
    ◆地雷廃絶日本キャンペーン 「NGOが国際政治を動かした! 〜地雷禁止国際キャンペーン〜」
       
  ◎ NGOの活動報告から
       
    ◆(社)シャンティ国際ボランティア会 「稲むらの火」
    ◆(財)ケア・インターナショナルジャパン 「バングラデシュ被災地より」 
    ◆日本民際交流センター 「子どもの将来開いた1万円」
    ◆(特活)JEN 「スリランカから届いた感謝の気持ち」
    ◆(特活)JEN 「新潟県川口町田麦山地区の被災者の皆様よりからのご寄付」
    ◆(財)ジョイセフ 「アフガニスタンへ届けられたフットサルボール」
    ◆(社)シャンティ国際ボランティア会 「タイ・バンコクスラムより神戸へ、神戸からスラムへ支援の輪」
       
  ◎ その他
       
    大島島民の支援活動 

「トルコの艦船『エルトゥールル号』事件」

    ◆谷津干潟愛護研究会 「残された干潟」 
    ◆サステナ 「戦争を止めた、無名兵士の話」
    ◆NPO法人居酒屋甲子園 「誰にも、光り輝く長所がある」
       
   
◎ NGOの政策提言活動から
【NGOが国際政治を動かした 〜地雷禁止国際キャンペーン URL:http://www.jcbl.jpn.org/
今もNGOでは社会をより良くしていきたいという思いで様々なキャンペーンを行っていますが、過去にNGOの政策提言活動が国際政治を動かし、条約を成立させ、ノーベル平和賞を受賞したキャンペーン活動があります。

この活動は、対人地雷の生産・使用・貯蔵等を禁止し、被害者の支援をも義務づける「オタワ条約」を成立させる原動力となりました。
◇ 地雷とは
地雷は兵士を殺傷することを目的とした兵器ではなく、手足等をふきとばしてけがをさせ、敵陣を混乱に陥れ、勢力を経済的・精神的に消耗させ苦しめることを目的とした、恐ろしい兵器です。「悪魔の兵器」と呼ばれています。

1800年代のアメリカ南北戦争で初めて使われました。
安いものだと数百円もしないでつくることができ、世界中の紛争で使われたため、製造が禁止となった今でも、アフガニスタン、カンボジアなど、79カ国と8地域が大きな問題を抱えています。
◇ 活動の開始は、1枚のFAXから
1991年、アメリカのNGOの代表ボビー・ミューラーさんが、ドイツのNGOで働くトーマス・ゲバウアーさんに1通のFAXを送りました。

2人はカンボジア等で地雷被害者のために義肢や車椅子を作る仕事をしていましたが、作っても作っても地雷はどんどん生産され、地雷によって命を落とす人々や手足を失ってしまう人々の数は、減るどころか年々増え続けています。

2人はどうにかしたいと思い、地雷除去や被害者支援をしている欧米のNGOへ働きかけをはじめました。

2人の呼びかけに欧米の6つのNGOが応え、翌年の1992年10月、『地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)』が始まることとなりました。
◇ 地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)の活動
ICBLの目標は、地雷を全面的に禁止することでした。しかし、政府関係者やNGOの仲間からさえ夢のような話だと、まともに相手にしてもらえませんでした。誰もが「できる訳がない」と思っていたのです。

それでも根気強く熱心に、運動を展開し、徐々にこのキャンペーンに参加するNGOを増やしていきました。

世界中のNGOに呼びかけ、毎年会議を開催しました。

活動に同意するNGOは徐々に増え始め、当初の6団体から、翌年の1993年には40団体、1994年には70団体、1995年には170団体、そして現在は90ヵ国1400を超えるNGOが加盟し、地雷廃絶運動を展開しています。

◇ 遠い道のり
活動開始から約3年、1995年にベルギーで世界で初めて地雷の「全面禁止法」が成立しましたが、しかしながら先進国ではまだまだ地雷の全面禁止に向けて動こうとする政治家は少数派でした。その年に行われた国際会議でも参加国の意見が食い違い、翌年に行われた会議でも、具体案としてまとまりませんでした。

このためICBLでは地雷の状況を写真や本にまとめ、政治家や政府関係者に理解してもらえるよう、必死に根気強く呼びかけ続け、努力を重ねました。
徐々に地雷を禁止しなければならないと考える政治家が増え始めました。1996年10月、カナダのオタワで何度目かの国際会議が開かれましたが、やはりなかなか意見はまとまりません。

ところが会議の最終日、カナダのアクスワージー外務大臣が、次のように言ったのです。

『来年12月に、オタワで、対人地雷を全面的に禁止する条約の調印式を開きましょう。』

この発言をきっかけとして、条約の交渉が進められることになりました。

◇ 日本の動き
日本は地雷の「全面禁止」には反対の国の一つでした。軍事上必要な兵器だというのがその理由でした。
【地雷の全面禁止に反対の国】…アメリカ・中国・ロシア・イギリス・日本など
【地雷の全面禁止に賛成の国】…カナダ・オーストリア・南アフリカ・ノルウェーなど

なんとしても日本政府に条約に参加して欲しい、こうした思いで、1997年7月、NGO「地雷廃絶日本キャンペーン(JCBL)」が設立し、日本政府に対し要望書や約3万5千人の署名を届けるなどの活動を続けました。

議員の中にも地雷の全面禁止を推進しようとする超党派の議員連盟ができました。

推進派の議員は議員380名分の署名を持ち、当時の橋本総理に、オタワ条約に調印するよう陳情したといいます。
橋本総理は、次のように言われたそうです。

『地雷についてはつらい経験もあり、数年前に地雷禁止の運動を国会内で起こしたが、ほとんど賛同を得られなかった。今回あなた達がこれだけ多くの超党派の議員の支持を集めてくれたことに感謝する。』

そして防衛庁に、本当に地雷がなければ日本の防衛はできないのか、対人地雷に代わる方法を探究するようにとの指示を出しました。
こうして日本でも機運が一気に高まり、その年の12月の地雷全面禁止条約への加盟につながることとなりました。

条約成立を喜ぶ人々
◇ ついに、条約が成立、ノーベル平和賞を受賞。

『地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)』の開始から約5年、1997年の12月2日から4日にかけて、ついに、地雷に関するあらゆる行為を禁止した「オタワ条約(対人地雷の使用、貯蔵、生産及び移譲の禁止並びに廃棄に関する条約)」が締結されることになりました。

アメリカ、ロシア、中国などの大国は反対したまま、
「賛成する国だけで条約を作る」という前例のない形となりましたが、地雷廃絶を願う人々の願いがついに形となったのです。

オタワ条約以前は、軍縮に関する条約は必ずといっていいほど、米露などの大国の影響を受け、実現に至らない事が日常化していました。

しかし、オタワ条約の成立に向けて、指導力を発揮してきたのは、オーストリアやベルギー等のいわゆる中堅国でした。そして、これらの国々をつなぎ動かしてきたのが、国の枠組みにとらわれない、ICBLをはじめとするNGOだったのです。
そしてオタワ条約調印式から1週間後の2007年12月10日、「地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)」と当時のコーディネーター、ジョディ・ウィリアムズがノーベル平和賞を受賞しました。

現場で働くNGOと政府の代表者が「人道問題」という同じ土俵で話をし、共通の目標に向かって協力することが可能であることを実証した貴重なケースであり、その功績がノーベル賞委員会に認められたのです。


2007年11月現在、156の国が条約に批准(条約に対し確認・同意をすること)し、使用や製造は確実に減っています。しかしながら、アメリカ・中国・ロシアなどの39カ国はまだ批准していません。※批准国・未批准国についてはこちら

これらの国々がすべて条約へ参加するまで、NGOの活動はまだまだ続きます。


また現在は、「第2の地雷」と呼ばれる新たな兵器「クラスター爆弾」の禁止を求め、多くの国に条約に調印するよう、地雷禁止国際キャンペーンをはじめとするNGOでは、条約成立の活動を続けています。

【協力】 地雷廃絶日本キャンペーン
http://www.jcbl-ngo.org/index.html?ref=self

【NGOアリーナ担当者感想】
私たち一般市民は何か大きな問題が起こったとき、誰かがこの問題を考えてくれるのではないか、もしくは考えて解決してほしい、と思ってしまうことが少なくないかも知れません。
大きな力を動かすためには、その力を揺るがす大きな力(心の底からの声と、変えようと行動する大きなパワー)が必要です。このキャンペーンの成功例は、あきらめずに行動すれば多くの人々の賛同を得ることができ、大きなパワーをつくり出すことができることを教えてくれています。
キャンペーン開始から5年で成果が出ているように見えますが、キャンペーンを開始する前にどれほど準備をされたのだろうと思うと、輝かしい成果の裏の地道な活動の積み重ねに頭が下がります。

   
◎ NGOの活動報告から
【(社)シャンティ国際ボランティア会

稲むらの火 〜スマトラ島沖津波災害救援・復興支援より〜 

約3年前の2004年12月26日、インドネシアスマトラ島沖でマグニチュード9.0の地震が発生し、この地震による津波被害で、大変多くの方が亡くなられました。

被害はインドネシア・スリランカ・インド等のアジア諸国のみならずアフリカにまで及び、約12カ国が影響を受けました。
犠牲者の数は22万人、被災者は240万人という数字が残っており、今なお現地で活動するNGOも存在します。


翻訳された『稲むらの火』を手にする
子ども達 (南タイ)

「シャンティ国際ボランティア会(SVA)」が活動するタイ南部では、この津波で6,000名を超える命が奪い去られました。

SVAでは直ちに救援活動を開始、被災者500人分の食糧や大型テント、給水タンク等を配布しました。また地域児童3,000名に対して制服や学用品なども贈り届けました。

そして防災教育教材として、日本の話である『稲むらの火』をタイ語に翻訳し、絵本として出版しました。

タイ語に翻訳された絵本『稲むらの火』は、タイ被災地域の学校や保健所、保育園などに配布されました。

『稲むらの火』は、現在の和歌山県広川町で起こった実話です。
明治30年に小泉八雲の著書の中で「生ける神」という物語として紹介されました。小泉八雲のこのお話をもとに教材用につくり直されたのが、「稲むらの火」です。

主人公のモデルとなった人物は、醤油商家の当主だった濱口梧陵氏。和歌山県広川町の役場前に、今も銅像が立っています。

〜物語スタート(抜粋)〜  ※より詳しくは、絵本等をお調べの上、お読みください〜

これは江戸時代のお話です。

紀州和歌山藩に広村という小さな村がありました。この村に浜口五兵衛という長者さまが住んでいました。

五兵衛は村の人たちから尊敬され、そして愛されていました。人々は五兵衛のことを親しみをこめて、“おじいさん”と呼びました。

五兵衛の草ぶき屋根の大きな家は、海を見下ろす小さな高台のはじに建っていました。そして五兵衛は家のまわりにある田んぼでたくさんの米をつくっていました。

広村の百に満たない家々は、五兵衛に見守られるように、海と山に挟まれたせまい土地にへばりつくように建っていました。

(中略)

その日は秋だというのにむし暑い日でした。五兵衛は先程から、胸騒ぎを感じていました。

「地震だ。」

かすかに地面がゆれるのに気づいて、五兵衛がつぶやきました。

人を驚かすような地震ではありませんでした。長い、のろい、ふんわりとしたゆれでした。たぶん、遠くの方で起こった地震だったのでしょう。

家はめきめきと小さな音をたてましたが、それからすぐにまた静かになりました。

五兵衛は下の村を見やりました。
村の人たちは、何事もなかったかのように、豊作の祭りの準備をすすめているようです。

五兵衛はそのあと、なんの気なしに目を海にうつしました。

すると…

海が、いつもとは違うように見えました。風とは逆の方に波が動いているのです。そして見る間にそこにはそれまで海の底だったところがあらわれはじめました。

うねったような砂の広場、海藻のからまる黒い岩…。それらは、これまで一度も見たことのない風景でした。

(中略)

五兵衛は孫に向かって言いました。

「忠、大急ぎでたいまつに火をつけろ!」

忠が五兵衛の顔を見ました。

「すぐに、たいまつを持って来い!」

忠は言われたとおりにたいまつに火をつけると、五兵衛に渡しました。

五兵衛はそれをひったくるように持つと、家の前にある田んぼに急ぎました。

そこには五兵衛たちが丹精込め育て、取入れを待つばかりの稲むらがありました。

五兵衛は、その稲むらの端の方から火をつけ始めました。できるだけ急いで、五兵衛は火をつけて回りました。

間もなく稲むらは次々と炎となって、天を焦がすような大きな火になりました。

「おじいさん、なぜこんなことをするの!」

忠が声をあげました。

忠は体をぶるぶるとふるわせて、稲むらの火と五兵衛を見ていました。そして忠は泣き出してしまいました。

無理もありません。今赤々と燃えている稲むらは、五兵衛や忠や皆にとって、とても大切は米のついた稲むらなのです。五兵衛は全ての稲に火をつけると、たいまつを投げ捨てました。そして村人の誰かがこの火に気づいてくれることを祈りました。

山村の小僧が火に気づきました。小僧はあわてて早鐘をつきました。

「ゴーンッ ゴーンッ ゴーン……」

山村の大きな鐘の音があたりに鳴り響きました。

村の人たちはこの音を聞いて、はじめて高台の火に気づきました。五兵衛の目に、村の方から蟻の群れのように山にのぼってくる村の人たちの姿が見えました。

「遅い。遅い。もっと早くのぼって来い!」

五兵衛には村の人たちの歩みが蟻より遅く感じられました。日は沈みかかっていました。

一番最初に村の若者たちが二十人位やって来ました。若者たちはすぐに火を消そうとしました。

「うっちゃっておけ!」

五兵衛が叫びました。

「早く、村中の人をここへ集めるのだ!…大変だ!」

(中略)

「おじいさんは気がちがってしまったんだこわい!」 忠が叫びました。

「おじいさんはわざと稲に火をつけたんだ!」 忠は泣きながらそう皆に訴えました。

「そのとおりだ!」 五兵衛が叫びました。

「わしは稲に火をつけた。みんなここへ来たか。」

その声に村のまとめ役があたりを見回して言いました。

「みんなおります。」

その時、五兵衛が沖の方を指差して、力いっぱいの声で叫びました。

「来たぞ!!」

みんなは五兵衛の指差す方を見ました。日が落ちた、薄暗い、はるか水平線のところです。

ひとすじの線がそこにあらわれました。
その線は見ているうちに太い線となりました。
そして、その太い線はみるみる高くなり、大きな壁のようになると、トビが飛ぶよりも速く、こちらに向かって押し寄せて来ました。

「津波だ!」

今度は村の人たちが叫びました。

ドドーン!!

その巨大な海のうねりは、山々をもとどろかすように重く、これまでに聞いたことのない音 ―百の雷が一度に落ちたような音―を伴って、海岸にぶつかりました。

そして、その波は、あたりが何もみえなくなるような水けむりをあげました。

人々はおそろしさのあまり、悲鳴をあげ、後ずさりしました。

恐る恐る下の方をのぞくと、村の家々の上を荒れくるいながら通ったおそろしい海がそこにありました。
波はうねりながら沖にしりぞく時に、海岸からひとつの村をひきちぎっていきました。

それからも波は幾度も幾度も打ち寄せ、しりぞいていきました。

しばらくそんなことを繰り返しながら、波は次第に小さくなりました。そして海は元に戻りました。

津波が去ったあとには、投げ出されてくだけた岩や海藻や砂利が残されているばかりでした。村は全く消えてしまったのです。

沖の方に草ぶきの屋根が浮いたり、沈んだりしているのが見えました。人々は恐ろしさのあまり、声も出せず、ただポカンと口を開けたまま、その場にたたずんでいました。

「あれを知らせるために…」五兵衛が言いました。

「稲に火をつけたのだ。」


はっと我にかえった人々は、一人また一人と五兵衛の前にひざまずき、深々と頭を下げました。

五兵衛の目には涙が光っていました。

〜物語おわり〜

【NGOアリーナ担当者より:感想】
シャンティ国際ボランティア会の支援活動報告を見て恥ずかしながらはじめて「稲むらの火」のことを知りました。
タイ語に翻訳され子ども達に配られたことは知っていましたが、「稲むらの火」がどんなお話なのかを知りませんでしたので、調べて絵本を購入しました。きっとまだまだ素晴らしいお話があるのだと思います。ご存知の方は是非教えてください。よろしくお願いいたします。

【(財)ケア・インターナショナルジャパン】

バングラデシュ被災地より


2007年11月15日夜、大型サイクロン「シドル」に見舞われたバングラデシュではインフラや作物が壊滅状態となり、死者約3300人、被災者は690万人にのぼりました。

一番の問題は「水」です。
池が塩水化してしまっているほか、池の中に遺体や家畜の死骸が放置されたままの状態になっているため水が汚染されてしまっていますが、その水を使用せざるを得ないため、下痢や脱水状態で亡くなる人々が増えています。改善しようにも安全な水が手に入りにくく、なかなか改善が進まない状況にあります。

この様な中、浄化施設により安全な水の供給や食料の配布、診療等を行うケア・インターナショナルジャパンより、下記の現地レポートが配信されてまいりました。

【巡回医療を行う地のそばに、小さな小屋が見えました。

それはとても小さく、中では誰も立つことができないほどです。壁はビニールシートと毛布で覆われています。いわば、壊れたパッチワークの家です。

その前に一人の女性が立っており、大切そうに腕に小さな赤ん坊を抱えていました。

これまでに私が会った人々と同じように、彼女は私に目配せをし、自分の壊れた家を見せました。


すべてを失ったけれど、家族が無事だったことが
何よりも幸せと話すMorsheda。右は夫のKailsen。
(C)CARE

『サイクロンが直撃した後、私は3日間、自分の夫が死んだものと思っていました』

と、彼女、Morshedaは言いました。

彼女の夫、Kailsenは沿岸で働いており、魚の干物を作り、家族のために収入を得ていました。


彼はサイクロンが来たとき、木にしがみつきました。
数時間後水位が上昇し、ヤシの木の頂上までどんどんよじ登って行きました。

道は暴風雨でもぎ取られ倒れた木でふさがり、数日間彼は村に戻ることができませんでした。

彼の妻は3日間、辺りを無気力に歩きまわり、絶望的な気持ちで夫の遺体を捜しました。

彼の妻はすでに喪に服していました。

…遺体も見つからず、諦めかけたその時、夫がゆっくりと近づいてくるのが見えました。

『私はとても衝撃を受け、そして安どしました。それはもう言葉では表すことができないほどです。』

と彼女は話した。

『私は、アヒルや鶏、家、そして収入などすべてを失ったけれど、家族が生きていること、ただそれだけで幸せです。私たちは、これからなんとか生きていかれるでしょう。』

絶望のなかに、彼らは小さな幸運を見つけたのです。

クルナへ戻る5時間にも及ぶ移動の間、私はずっとこの若い夫婦のことを思い出していました。

美しい夕焼けを見ながら、私はより多くの人々が何らかの幸運を得られることを望んでいました。そして、生活を続け未来を再建していくために必要な精神、強さ、そして手段を、人々が見つけることができたら、と思いました。】

※「ケア・インターナショナルジャパン」の支援活動についてはこちらへ
※当サイト内バングラデシュサイクロン支援活動についてはこちらへ


【NGOアリーナ担当者より:感想】

先進国の人々が抱える問題の中に、「精神的貧しさ」の問題があります。
テレビの中に出てくる人々や周囲の人に比べ、まだまだ自分の生活は満足ではない、と感じてしまう精神構造です。
広い家、立派な車、最新の電気機器等々、これらは次々に最新のものが製造され、人々の欲望を駆り立て、それらを追い求め始めると、終わりはなく、いつまでも不満が残り、きりがありません。

どのような状況でも、人には幸せを感じる力があります。ゴミ山で暮らす少女であっても、考えられない状況の中にあっても、「幸せだ」と感じる強さと明るさがあります。

そんな人々の話を聞く度に、自分の至らなさを思い知ります。そして何か少しでもできることをしようと思います。
心を砕き人のために何か小さな行いでも行ったことは、きっと巡りめぐって有形無形の形で自分にも返ってくると思うのです。

 
【日本民際交流センター】

奨学金をバネに人生を切りひらいた少女の物語
(2005/10/26) 
現在の
パッサコーンさん
中学生時代の
パッサコーンさん

中学時代、日本民際交流センターの行う「ダルニー奨学金(*)」により中学校へ通うことができたパッサコーンさん(左写真)は、「ドナーに会ってお礼をいいたい」という思いを胸に、2001年、日本民際交流センターのタイ事務局へ問い合わせをしてきました。

(*)日本民際交流センターが行う、年間1万円の寄付でドナー(里親)になってもらい、貧しいタイヤラオスの子ども達の
教育を支援する制度。


その問い合わせがきっかけとなり、奨学金提供者(井原信江さん(仮名))と、十年の時を経て、2002年同センター15周年記念行事の際に日本に招かれて、感動の対面を果たしました。


井原さん(仮名)に贈ったパッサコーンさんの
中学時代の様子をかいた絵とその絵を手にする井原さん
以下は、パッサコーンさんの対面に至るまでの話です。

1993年、タイ国チャイヤプーム県の農村に住むパッサコーンさんは、中学進学という夢を実現しようと焦っていました。しかし、現実は夢からは程遠いものでした。

両親にはとてもそんな余裕がなく、ある日母親が将来をほのめかしてこう言いました。「兄さんや姉さんと一緒にバンコクの建築現場で働くんだよ。村の子どもたちはみなそうしているんだから」。 

しかし、こうした窮状を跳ね返す奇跡が起こりました。
「ダルニー奨学金」を得たのです!

 この知らせを受けると、両親はもう何も言いませんでした。

パッサコーンさんは1993年から95年まで村の中学校に通い、その後さらに勉強を続けるため、クルンタイ銀行の教育ローンで、5年制のチャイヤプーム職業学校に入学し、そこで農業を勉強しました。

2001年に卒業する時、否応なくタイの経済危機に飲み込まれ、その後、仕方なくソンクラーで姉と建設労働者として働きましたが、3ヶ月後、「タイ漁業局の臨時職員募集」の求人広告が目にとまりました。片道の電車賃しかなかったもかかわらず、すぐにバンコクに行きました。その試験でこれまでの生い立ちを話すと、面接官がそれを評価し、全員一致で「採用」が決まりました。
その後、数年間は、タイ漁業局職員として勤務しながら、夜間大学で農業の勉強をしていました。
現在は、タイ漁業局で働きながら、故郷の学校で農業を教える教員になるための採用試験の勉強中です。

二十歳になったパッサコーンさんの夢は叶いました。
いえ、夢がまだ1つだけ残っていました。ダルニー奨学金のドナーに会うことです。
お礼を言うだけではなく、夢が実現する可能性のかけらもなかった貧しい少女が、奨学金のお蔭で人生が変わり、こんなにも成長した
姿を見てもらうために。

子どもの頃、ロウソク1本の光の中で毛布を被って勉強した日々。壁に、彼女を見守る井原さん(仮名)を描き入れました。
実際パッサコーンさんは「遠く離れた人から希望を与えられ、どんなに苦しくてもがんばれました。何の見返りも期待せず、手を差し伸べてくれたのです。希望の光は部屋だけでなくて、私の人生全体を照らしてくれたんです」と語っています。

パッサコーンさんがタイに帰国する別れの日、支援者の井原さん(仮名)は、次のように語っています。
「若くて可能性が十分あるので、自分のペースで頑張ってください。パッサコーンさんの大きな感謝の気持ちを思うだけで、こちらの人生にも大きな影響を与えてくれそうです。私の方から彼女に感謝状を贈りたい気持ちです」と語りました。

井原さんとの別れに涙を流しながらもパッサコーンさんは次のような言葉を残し、日本を後にしました。
「私は小さな点のような人間でしたが、大人になって貧しい農村の問題がわかるようになってきました。今、仕事をしながら大学の農業開発学科で勉強していますが、将来は農業開発の仕事に就き、農業の安定と発展に貢献したい。そして、自分1人、運が良かったというだけで終わってはいけないと思うのです。私もいつか援助しようと思います。私がチャンスをもらったように、後輩にもチャンスを与えたい」。

 

【(特活)JEN】

スリランカから届いた感謝の気持ち
(2005/9/29)
JENがココナッツ・ロープ作りの職業訓練活動を行ったスリヤワラナ村の参加者からJENの事務所にプレゼントが届きました。

自分たちで編んだココナッツ・ロープを使って作ったJENの文字の入りマットです。
この活動に参加できたことへの感謝の気持ちを表すため、全員で協力して作ってくれたということです。
世界に1枚しかないJENの名前入りココナッツ・ロープマットは、現在JENのスリランカ事務所に飾られています。丁寧に編まれたロープの1本1本から人々の温かい思いが伝わってくるようです。JENを通じて彼らを応援してくださっている日本の皆さんにも、心からの感謝をこめて。

【(特活)JEN】

新潟県川口町田麦山地区の被災者の皆様より、スマトラ島沖地震被災地スリランカへにて
支援活動を行うJENへ20万円のご寄付 
※最終的には556,533円ものご寄付をいただきました。(2005/1/20JEN報告より)

新潟県川口町田麦山の被災者の方々が、スマトラ島沖地震の被災者支援のために募金を集めてくださいました。

田麦山は、新潟県中越地震で震度7を観測し、最も被害が大きかった地域のひとつです。

全国から新潟に集まった支援に対する感謝を込め、ぜひその恩返しをしたいとのお気持ちから、田麦山地区に住む約600人の方々全員のご協力により合計20万円の募金が集まりました。

この募金は同地区で被災者支援を行なっていたNGO「JEN」を通じて、スリランカの津波被災者の方々のために役立てられます。

雪の季節を迎え、まだまだ大変な状況が続いている新潟から、あたたかく力強い激励がスリランカに届けられます。

(JENは田麦山の皆さまからの募金で、北部・キリノッチ(Kilinochchi)で支援活動を行いました。
現在、国際援助団体の支援が開始され支援物資が届きはじめているものの、足りないものがまだまだ多く、被災者の方々は不自由な生活を強いられています。JENは、避難所の人たちからの要望が一番高かった生活必需品(歯磨き粉)を現地で購入し、約3,500人の被災された方々に配布しました。
新潟県中越地震で被災され、いまだ不自由な生活を余儀なくされている方々からの力強くあたたかい支援が、スリランカの人々に届きました。心から感謝を申し上げます。今後も引き続き、皆さまのあたたかいお気持を、確実にスリランカの人々に届けていきます。)

【(財)ジョイセフ】

アフガニスタンへ届けられたフットサルボール
いつも当サイトを通じ、関西フットサル界の強豪チームを対象とした「フットサル大会」の参加費の全額を様々な団体へご寄付いただいている、日本空調サービス(株) キューズガーデンジョイナス様(関西フットサル施設交流会所属)より、関西のフットサル施設で使用しなくなったボール等のご寄付のお申し出をいただき、この度(財)ジョイセフを通じてアフガニスタンへ届けられ、アフガニスタンより写真が届けられました。
かつてのタリバン政権下では、子ども達は自由にサッカーで遊ぶことは許されませんでした。

サッカーは西側文化の象徴として様々な制約があったほか、多くの地雷が埋められ、自由に走り回ることができなかったのです。

こちらのページで、より多くの写真及び大きな写真をご覧いただくことができます。

(2004/11/1)
 
【(社)シャンティ国際ボランティア会】

タイ・バンコクのスラム地区から神戸へ、神戸からスラムへ支援
1995年の阪神・淡路大震災の際、日本からの奨学金を受けていたタイ・スラムの貧しい地区の子供たちが、「日本の人々のために」と率先して募金箱を手に路地をまわり募金活動を展開。 スラムの住民たちは苦しい生活の中から自発的に募金を集め、2月初頭には、集まった120万バーツ(1バーツは約4円)約400万円を被災地神戸へ送りました。

急成長するタイ経済を底辺で支える彼らの収入は、最低賃金法の1日、145バーツを割ることさえあり、劣悪な労働条件と住環境の中にあります。決して楽ではない暮らしの中から、因果応報を信じる彼らは、「タイ人にとって苦しんでいる人を助けることが、即ち徳を積むことなのです」と義援金を神戸へ送ってくれました。
義援金は被災地で活動していたボランティア団体などに手渡され、主に親や家を失った子供たちを慰める催しや、臨時保育所を開くために使われました。
そのスラムで、2004年4月23日、火災が発生。強風にあおられてほぼ全域が焼失。居住者8000人が家を失いました。社団法人シャンティ国際ボランティア会は、1985年に図書館を開設、87年には保育園(当時は託児所)を開設して、スラム住民の生活向上を支援してきましたが、その図書館も全焼、保育園も半焼しました。

火災のニュースに接した神戸では、スラムの人びとに「そのときのお返しをしよう」「九年前の支援を忘れられない。今度は被災地から思いを届けたい」という呼びかけで、募金活動が行われました。

(2004/5/1)
 

【大島島民の支援活動】


トルコの艦船「エルトゥールル号」事件

はじめに〜イラン・イラク戦争での出来事  エルトゥールル号の遭難  大島樫野の村人たちの支援活動


○はじめに 〜イラン・イラク戦争での出来事〜

1980年〜88年(昭和55年〜63年)の8年間にわたり、イランとイラクの間で国境を巡り大規模な「イラン・イラク戦争」が起こりました。

勃発から5年、長引く戦闘にしびれを切らしたイラクのサダム・フセインは 突如イランのテヘラン空爆を宣言、
『48時間を過ぎた場合、イラン上空を飛ぶ航空機は、国籍に関係なく、全て追撃すると発表しました。

イランにいた日本人たちは大混乱となり、テヘラン空港に200人以上が詰めかけることとなります。

当時イランとイラクは互いの資金調達を困難にするためにペルシャ湾を航行するタンカーを攻撃するという作戦を行っていたこともあり、空爆は実行される率が極めて高い状況にありました。

外務省は日本航空に対し、日本人の救援機派遣を依頼します。
しかしながら日本航空は、「帰る際の安全が保障されない」とし、日本人救助のための日本航空機の乗り入れは断念されることとなります。

外国の航空機特別便が次々と運行され自国民を運ぶ中、日本人200人以上がテヘラン空港に取り残されることになりました。

刻々と時が流れ、48時間のタイムリミットまであと80分となり、もはや万事休す、と思われたその時、ある国の救援機がテヘランに乗り入れ、日本人215人を救出してくれました。

危険を冒してまで日本人を救出してくれたのは、「トルコ」の救援機でした。
それは、まさに危険と隣り合わせの、危機一髪の救出劇でした。

なぜトルコが?

当時朝日新聞など日本の新聞は、『日本政府がトルコに対し、多額の経済援助をしているからだ』と報道しました。

しかしながら、本当の理由は、全く違うところにありました。

後日当時のトルコ大使ネジアティ・ウトカン氏は、次のように述べています。

「明治23年にトルコ軍艦エルトゥールル号の遭難に際し、日本人がしてくださった献身的な活動を、今もトルコ人は忘れていません。私も小学校の頃、歴史教科書で学びました。
トルコでは子どもたちでさえエルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。
それでテヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」


日本の報道を聞き、明治23年のエルトゥールル号事件のことを知っている日本人はこの報道にあきれ、『人々の善意を金銭的な価値観でしか見れなくなってしまった』日本人の浅はかさを嘆きました。

さて明治23年のエルトゥールル号事件とは、どのような事件なのでしょうか。

エルトゥールル号の遭難

今から118年前の明治23年9月16日、和歌山県紀伊半島の南端を台風が襲いました。
南端に位置する大島の東の断崖を波が「ドドーン」と打ちます。

午後9時頃、台風の音に混じって、「ドドドカーン」という音が、真っ暗な海から聞こえました。大島の東に立つ灯台を守っていた灯台守(通信技手)がはっきりとその爆発音を聞いています。

「何か大変なことが起こらなければいいが。」

再び耳を澄ましましたが、もう既に何も聞こえませんでした。

数分後、「ドンドン」と灯台の扉をたたく音がします。

「こんな嵐の夜に誰だろう。」

ドアを開けると、服がちぎり取られ顔や体中から血を流した、ほとんど裸同然の男性が倒れ込んできました。
酷い傷を見て、すぐに遭難者だと気づきました。応急手当をし、万国信号書で国籍を確認します。

「土耳古(トルコ)?ほとんど聞いたことのない国だな。」

灯台守は、灯台から一番近い樫野の村の人たちに知らせようと思い、真っ暗な夜道を駆け出します。

駆け出す途中、40メートルの崖を傷だらけの遭難者たちがよじ登る姿を目の当たりにします。その姿は、地獄から這い上がろうとしている亡者のようだったそうです。

※「エルトゥールル号」は当時勢力を拡大していたロシアに対抗し、 日本と協力関係を結ぶために11ヶ月をかけ日本にやってきたトルコの木造軍艦です。全長76m、総重量2344トン、600馬力を装備していました。

この事故は1年2ヶ月ぶりにトルコへ帰る途中の出来事でした。
台風に流され熊野灘の岩に座礁し、船は真っ二つに裂けます。その瞬間、エンジン部分に海水が流れ込み大爆発を起こし船は沈没、乗組員は海に投げ出されました。

○大島樫野の村人たちの支援活動

当時村には50軒ほどの家々がありました。
船が遭難したという知らせを聞き、村中総出で救出活動が開始されました。
男性たちは嵐の中を四方に散って遭難者を捜索し、女性は救出された方の手当てと炊き出しを行いました。

明け方崖の下へ降りてみると、海面にはおびただしい船の破片と遺体が見えました。

「まだ息があるぞ!」

まだ息のある遭難者の冷え切った体を温めるため、村人たちは人肌であたためました。

最終的に、500名以上の乗組員が死亡、生存者は69名でした。
遺体は村人によって丁重に葬られました。

生存者は樫野の村の小さなお寺と小学校に収容されます。
当時は、電気、水道、ガス、電話などはありません。水は雨水を利用していました。
村の生活は、漁をしてとれた魚を町で売ってお米に換えるというつつましい暮らしであったため、蓄えはほとんどありません。

村人は非常食として蓄えていたサツマイモや鶏、貴重な米を提供しましたが、台風で漁ができないため、食料が尽きてきました。

「もう食べさせてあげるものがない。どうしよう。」

村人は村中の二ワトリをかき集め、自分たちの食べる分も忘れて生存者に食べさせます。このお陰で69名のトルコ人が一命を取り留めることとなりました。

5日後、生存者たちは本格的な治療を受けるために神戸に移りることとなり、そしてそれから約4ヵ月後、日本海軍の船で無事、トルコに帰還します。

当時、生存者の治療にあたった医師たちは、治療費と薬代をすべて寄付し、完全なボランティアとして治療にあたりました。
またこのニュースを知った日本中の人々から、多くの寄付金や、遺族のための弔慰金が集まりました。

現在串本町樫野には、異国の海に散った将士たちの霊を慰めるために建てられた「トルコ軍艦遭難慰霊碑」と、エルトゥールル号の模型や遺品、写真などが展示されている「トルコ記念館」があり、遭難当時の様子を伺い知ることができます。

【NGOアリーナ担当者より:感想】

このような素晴らしい実話が、なぜ日本で語り継がれていないのか、本当に不思議です。(ご存知の方も多いかもしれませんが、恥ずかしながら私はごく最近、知りました。)

当時の日本人は、社会的弱者や敗者へ涙を流す「惻隠(そくいん)の情」(武士道精神)を持ち合わせていたといわれています。
日本人の根底に流れていると思われるこれらの精神を、今後も探していきたいと思います。
 
   

【谷津干潟愛護研究会】

残された干潟


東京湾の一番奥、千葉県習志野市に、約 40ha の小さな干潟が残されています。名前は「谷津干潟(やつひがた)」
水辺の自然を保護することを目的とするラムサール条約の登録地でもあります。

ここはかつて(1970年代中頃)、埋め立て寸前の、公然と大量のゴミが投げ捨てられ、ヘドロと悪臭にまみれた場所でした。

家庭から出るゴミ、土砂、鉄骨、コンクリート塊、廃材、かわら、ガラス、古タイヤ、冷蔵庫、畳、タンス、布団、自転車、オートバイ、墓石等、ありとあらゆるものが捨てられていました。

「子どもの頃あれほど大好きだった海が、これではあまりにかわいそうだ。」

うず高く積み上げられたゴミに立ち向かった、一人の青年がいました。

青年はヘドロの中でも生きようとする小さなカニの姿に励まされ、たった一人でゴミを拾い始めました。

新聞配達の合間をぬい、雨の日も雪の日も、たった一人でただ黙々とゴミを拾い続けました。

ヘドロの下には「子どもの頃に遊んだ砂地がある、貝やカニがいる」、そう思いながら、ヘドロにまみれて拾い続けました。

初めは人の目が気になり、人が来ると拾うのをやめ、遠くを見ているようなふりをしていました。他人の目を気にする、そんな自分自身が情けなくて、涙が出ました。

そんな葛藤と自分の弱さに打ち勝ち、堂々とゴミを拾えるようになりましたが、拾っても拾っても、ダンプカーがやってきてゴミを捨てていきます。

悪臭に悩まされ、行政も住民も、早期埋め立てを望んでいました。

燃やせるゴミは燃やしましたが、燃やせないゴミは行政に引き取ってもらわなければなりません。ところが引き受けを拒否され、ゴミを投げつけられたこともありました。


ゴミを拾い続けて8年がたった頃、彼の情熱に動かされ、手伝う人が出始めました。

そして生き物達が少しずつ戻ってきました。

やがて支援の輪が広がり始め、干潟保存の機運が高まります。そしてついに行政を動かし、市による埋め立ての方針が撤回されるに至ったのです。森田さんがゴミを拾いはじめて11年目のことでした。

その後干潟は日本有数の水鳥の宝庫となり、
15年後の昭和63年、国の鳥獣保護区に指定されることとなりました。平成10年にはラムサール条約の登録地となっています。

【参考】
森田三郎と谷津干潟
http://www.bekkoame.ne.jp/~taza/higata/morita-higata.html
・「たった一人が世界を変える」轡田隆史著 同朋社 1998年
・埋もれた楽園―谷津干潟・ゴミと闘った20年 三枝義浩著 講談社 1993年

【NGOアリーナ担当者より:感想】

この話は、想像を絶する大量のゴミと、埋め立てを推進しようとする行政や住民と闘い、生き物や海を守って来られた森田さんの壮絶な闘いの歴史です。

何かを始めようとする時、最初は一人。
最初の一人になるということは、大変な作業なのだということをあらためて思い知りました。

孤独や人の目を乗り越え情熱を失わずにやり続けることができた時、思いもよらなかった新たな世界が開けるのでしょう。
『才能とは、継続できる情熱である。』という羽生善治さんの言葉を思い出しました。

当サイトも、支援いただける皆様がいていただける限り、情熱を失わず、日々邁進していきたいと思います。

【サステナ マエキタミヤコさん】
※今回ご協力いただきましたサステナは、当サイト参加団体ではありません。この場をお借りし、深く御礼申し上げます。

戦争を止めた、無名兵士の話


この話は、オーストラリアの北、パプア・ニューギニアの東にある人口約18万人の島ブーゲンビル島でのお話です。

ブーゲンビル島にある銅鉱山は世界最大規模の埋蔵量を誇っており、この銅鉱山を巡って列強諸国が争いを繰り広げてきました。本来ソロモン諸島のすぐ近くにある島ですが、ソロモン諸島には組み入れられず、イギリス支配下のパプア・ニューギニアに編成されました。

島ではイギリスの世界一の鉱山会社の子会社にあたる「ブーゲンビル銅鉱会社」が鉱山を掘っていましたが、乱開発により水や土地や海は汚れ、島の人々の生活はいっこうに豊かにならないばかりか次第に生活環境が破壊されてきました。島の人々は鉱山会社に対し土地の返還を求めます。ところが支配側に回っていた政府軍により弾圧・人権侵害等に遭い、要望は通りませんでした。

こうした中で島の住民により「ブーゲンビル革命軍(BRA)」というゲリラ軍が組織され、島は1988年から1998年頃まで内戦状態になります。

内戦状態の中、ゲリラ兵であったこのお話の主人公、ジェームス・タニスは考えました。

政府軍といっても人口18万人の島の人々です。戦争をしていても敵は親戚だったりします。
互いに1万人以上を殺し合いました。

「本当にオレたちは互いに敵なのか?他に本当の敵がいるんじゃないのか?」

「もしかしてオレたち戦争やらされてるんじゃないの?オレたちが戦争することでほかの誰かが儲かってるんじゃないの?」

「とにかく死ぬのが恐かった。だからとことん考えた。」

部隊長であった彼は、まず仲間うちでしめしあわせ、敵を撃つときには、「相手の頭の上の、相手をはずしたところを狙え。」と命じました。そして逃げる時には建物の壁のあちらこちらに「WE LOVE YOU」と書きました。そして敵とばったり出くわしたときには笑顔で手を振り走って逃げるという行動を取り、チラシを降らせて不戦の意志を伝えていきました。

…次第に殺しあわない状況が前線に生まれてきました。

そしてタニスは武器を上官の前に差し出し、「オレはもう女・子どもを殺さない、殺すなら自分でやってください。」と言い、相手にも自分の武器を差し出し「オレをその銃で撃ち殺してもかまわない」と言ったといいます。

その後1998年、政府とゲリラ軍は停戦合意し、鉱山会社は島から出て行きました。

「オレは平和のためなら死ぬのはかまわないが、戦争で死ぬのはほんとに恐い。臆病だからね。だから一生懸命考えたんだよ。」「ボクは小学校もいってないよ。村には電気もないし、貨幣もないし、石器時代の生活だよ」

と話すタニスは、戦争兵士症候群とでもいうのでしょうか、2時から5時には頭が冴えてしまうそうです。「奇襲の時間だから」。
きっとアルコールに頼っている人も多いのではないでしょうか。精神を病む人や、せっかく戦争で生き残って平和になったのに自殺してしまう人も多いそうです。
一緒に戦争をやめて、島の平和をとりもどすための武装解除の仕事をした仲間は3人いたのに、ひとり死んでしまい、もうひとりも2週間前に感電自殺。いま生き残っているのはボクだけ。と、言っていました。

笑いながら話す彼の目からは、ずっと涙があふれ出ていました。

※ジェームス・タニスさんに会いたい方はこちらをご覧ください。
http://www.ecocolo.com/starblog/maekita/archives/2006/04/post_43.html

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〜紛争のカタチの変化〜

現在も今この瞬間も、世界のいたるところで紛争が起きています。

米ソの冷戦構造(1980年代後半〜1991年)の終結により、世界では大国同士の戦争で使用される可能性のあった核兵器による全人類滅亡の危機感及び緊張感がなくなり、平和が訪れると誰もが思っていましたが、秩序維持システムがなくなったことにより、新たな紛争の形に直面することになりました。

それらは地域紛争と呼ばれ、民族対立や宗教対立等、それまでの構造のゆがみによる不満等が国境を越え一気に爆発し、各地で内戦が繰り広げられるようになっています。(*内戦についてはこちらをご覧ください)

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【NPO法人居酒屋甲子園】理事長ブログより


誰にも、光り輝く長所がある




『クラスの生徒の一人に体の弱い男の子がいました。

その子の母親はいつも息子のことが心配で、ある日先生に相談をしに行きました。


母親 「先生。いつも心配していましたがうちの子は大丈夫なんですかねぇ。」


先生 「そうですねー。先日クラスの皆で野球をしたことがあったのですが、その時の話をしましょう。


その日、生徒がグラウンドで野球をしてたのを私は教室の窓からずっと眺めていました。

皆楽しそうにしてたのですが、息子さんは「外野」の「外野」(=球拾い)を守っていました。

でもなかなか球は飛んで来ず、結局最後まで一度もボールを触る事はありませんでした。

また、バッターボックスに立つどころか、バットにも触れてなかったと思います。


そしてチャイムが鳴って皆が教室に帰ってくると、何人もの生徒が私に向かって、

「先生俺ヒット打ったんだよ!」とか、

「僕はあの子を三振にしたんだよ!!」とか、

「僕は盗塁をしたんだよ!」などと、

楽しそうに言ってきました。


しかし、一人だけ皆とは違うことを言う子(息子さん)がいたんです。

その子は何と言ったと思いますか?


その子は満面の笑みを浮かべながら楽しそうに、こう言ってきたんです。



「先生!〇〇君がすごいヒットを打ったよ!」

「〇〇君があの子を三振にしたんだよ!」

「〇〇君は足が早くて盗塁成功したんだよ!」



…私は本当にびっくりしました。


お母さん。あなたの息子さんはとても心の優しい生徒です。素晴らしい生徒ですよ。」


お母様は泣き崩れ、心優しい息子を知って安心されたそうです。』


【NGOアリーナ担当者より:感想】
経済優先の社会では、人より早いこと、数字に表れる形で人より優れていること、人にはない物を持っていること等が素晴らしいとされてきました。そしてそうした社会が、実は自然環境をどんどん破壊していくシステムをつくり出してきました。

このお話に出てくるお子さんの長所は、数字にはあらわれません。
しかしながら、自分ができない分、仲間を応援することができる才能、不器用だけれども、誰よりも一生懸命な才能があります。
今はまだそうした才能が評価されるシステムの社会にはなっていませんが、数字には出ないけれど、こうした素晴らしい才能が、どんどん評価される世の中になっていって欲しいと、心から思います。