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当コーナーでは、当サイトの運営を担当させていただいている担当者個人が、日々の活動の中で遭遇し、 感動した出来事等を掲載させていただいています。 当サイト参加団体以外の活動につきましてもご紹介させていただきます。 |
| 【地雷廃絶日本キャンペーン】
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◇ 地雷とは
地雷は、兵士を殺すことを目的とした兵器ではなく、手足等をふきとばしてけがをさせ、敵陣を混乱に陥れ、勢力を経済的・精神的に消耗させ苦しめることを目的とした、恐ろしい兵器です。「悪魔の兵器」と呼ばれています。
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| ◇ 活動の開始は、1枚のFAXから 1991年、アメリカのNGOの代表ボビー・ミューラーさんが、ドイツのNGOで働くトーマス・ゲバウアーさんに1通のFAXを送りました。 |
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地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)の活動
ICBLの目標は、地雷を全面的に禁止することでした。 |
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◇ 遠い道のり 活動開始から約3年、1995年にベルギーで世界で初めて地雷の「全面禁止法」が成立しましたが、しかしながら先進国ではまだまだ地雷の全面禁止に向けて動こうとする政治家は少数派でした。その年に行われた国際会議でも参加国の意見が食い違い、翌年に行われた会議でも、具体案としてまとまりませんでした。 こうして徐々に地雷を禁止しなければならないと考える政治家が増え始めました。 1996年10月、カナダのオタワで何度目かの国際会議が開かれましたが、やはりなかなか意見はまとまりません。 この発言をきっかけとして、条約の交渉が進められることになりました。 |
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◇ 日本の動き
日本は、地雷の全面禁止には反対の国の一つでした。軍事上必要な兵器だというのがその理由でした。 なんとしても日本政府に条約に参加して欲しい、こうした思いで、1997年7月、NGO「地雷廃絶日本キャンペーン(JCBL)」が設立し、日本政府に対し要望書や約3万5千人の署名を届けるなどの活動を続けました。 |
![]() 条約成立を喜ぶ人々 |
◇ ついに、条約が成立!ノーベル平和賞を受賞 |
| 2007年11月現在、156の国が条約に批准(条約に対し確認・同意をすること)し、使用や製造は確実に減っています。しかしながら、アメリカ・中国・ロシアなどの39カ国はまだ批准していません。※批准国・未批准国についてはこちらへ
【NGOアリーナ担当者より:感想】
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【(社)シャンティ国際ボランティア会】 |
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「シャンティ国際ボランティア会(SVA)」が活動するタイ南部では、この津波で6,000名を超える命が奪い去られました。 |
| 『稲むらの火』は、現在の和歌山県広川町で起こった実話です。 主人公のモデルとなった人物は、醤油商家の当主だった濱口梧陵氏。
「地震だ。」 かすかに地面がゆれるのに気づいて、五兵衛がつぶやきました。 人を驚かすような地震ではありませんでした。長い、のろい、ふんわりとしたゆれでした。たぶん、遠くの方で起こった地震だったのでしょう。 家はめきめきと小さな音をたてましたが、それからすぐにまた静かになりました。 五兵衛は下の村を見やりました。 五兵衛はそのあと、なんの気なしに目を海にうつしました。 すると… 海が、いつもとは違うように見えました。風とは逆の方に波が動いているのです。 うねったような砂の広場、海藻のからまる黒い岩…。それらは、これまで一度も見たことのない風景でした。 (中略) 五兵衛は孫に向かって言いました。 「忠、大急ぎでたいまつに火をつけろ!」 忠が五兵衛の顔を見ました。 「すぐに、たいまつを持って来い!」 忠は言われたとおりにたいまつに火をつけると、五兵衛に渡しました。 五兵衛はそれをひったくるように持つと、家の前にある田んぼに急ぎました。 そこには五兵衛たちが丹精込め育て、取入れを待つばかりの稲むらがありました。 五兵衛は、その稲むらの端の方から火をつけ始めました。 間もなく稲むらは次々と炎となって、天を焦がすような大きな火になりました。 「おじいさん、なぜこんなことをするの!」 忠が声をあげました。 忠は体をぶるぶるとふるわせて、稲むらの火と五兵衛を見ていました。 無理もありません。今赤々と燃えている稲むらは、五兵衛や忠や皆にとって、とても大切は米のついた稲むらなのです。 五兵衛は全ての稲に火をつけると、たいまつを投げ捨てました。そして村人の誰かがこの火に気づいてくれることを祈りました。 山村の小僧が火に気づきました。 「ゴーンッ ゴーンッ ゴーン……」 山村の大きな鐘の音があたりに鳴り響きました。 村の人たちはこの音を聞いて、はじめて高台の火に気づきました。 五兵衛の目に、村の方から蟻の群れのように山にのぼってくる村の人たちの姿が見えました。 「遅い。遅い。もっと早くのぼって来い!」 五兵衛には村の人たちの歩みが蟻より遅く感じられました。日は沈みかかっていました。 一番最初に村の若者たちが二十人位やって来ました。若者たちはすぐに火を消そうとしました。 「うっちゃっておけ!」 五兵衛が叫びました。 「早く、村中の人をここへ集めるのだ!…大変だ!」 (中略) 「おじいさんは気がちがってしまったんだこわい!」 忠が叫びました。 「おじいさんはわざと稲に火をつけたんだ!」 忠は泣きながらそう皆に訴えました。 「そのとおりだ!」 五兵衛が叫びました。 「わしは稲に火をつけた。みんなここへ来たか。」 その声に村のまとめ役があたりを見回して言いました。 「みんなおります。」 その時、五兵衛が沖の方を指差して、力いっぱいの声で叫びました。 「来たぞ!!」 みんなは五兵衛の指差す方を見ました。日が落ちた、薄暗い、はるか水平線のところです。 ひとすじの線がそこにあらわれました。 その線は見ているうちに太い線となりました。 そして、その太い線はみるみる高くなり、大きな壁のようになると、トビが飛ぶよりも速く、こちらに向かって押し寄せて来ました。 「津波だ!」 今度は村の人たちが叫びました。 ドドーン!! その巨大な海のうねりは、山々をもとどろかすように重く、これまでに聞いたことのない音 ―百の雷が一度に落ちたような音―を伴って、海岸にぶつかりました。 そして、その波は、あたりが何もみえなくなるような水けむりをあげました。 人々はおそろしさのあまり、悲鳴をあげ、後ずさりしました。 恐る恐る下の方をのぞくと、村の家々の上を荒れくるいながら通ったおそろしい海がそこにありました。 それからも波は幾度も幾度も打ち寄せ、しりぞいていきました。 しばらくそんなことを繰り返しながら、波は次第に小さくなりました。そして海は元に戻りました。 津波が去ったあとには、投げ出されてくだけた岩や海藻や砂利が 沖の方に草ぶきの屋根が浮いたり、沈んだりしているのが見えました。 人々は恐ろしさのあまり、声も出せず、ただポカンと口を開けたまま、その場にたたずんでいました。
五兵衛が言いました。 「稲に火をつけたのだ。」
〜物語おわり〜 【NGOアリーナ担当者より:感想】
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| 【(財)ケア・インターナショナルジャパン】 【巡回医療を行う地のそばに、小さな小屋が見えました。 |
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『サイクロンが直撃した後、私は3日間、自分の夫が死んだものと思っていました』 |
…遺体も見つからず、諦めかけたその時、夫がゆっくりと近づいてくるのが見えました。 クルナへ戻る5時間にも及ぶ移動の間、私はずっとこの若い夫婦のことを思い出していました。 ※「ケア・インターナショナルジャパン」の支援活動についてはこちらへ |
| 【日本民際交流センター】 ◆奨学金をバネに人生を切りひらいた少女の物語(2005/10/26) |
| 現在の パッサコーンさん ![]() |
中学生時代の パッサコーンさん ![]() |
中学時代、日本民際交流センターの行う「ダルニー奨学金(*)」により中学校へ通うことができたパッサコーンさん(左写真)は、「ドナーに会ってお礼をいいたい」という思いを胸に、2001年、日本民際交流センターのタイ事務局へ問い合わせをしてきました。 |
![]() 井原さん(仮名)に贈ったパッサコーンさんの 中学時代の様子をかいた絵とその絵を手にする井原さん |
以下は、パッサコーンさんの対面に至るまでの話です。 1993年、タイ国チャイヤプーム県の農村に住むパッサコーンさんは、中学進学という夢を実現しようと焦っていました。しかし、現実は夢からは程遠いものでした。 両親にはとてもそんな余裕がなく、ある日母親が将来をほのめかしてこう言いました。「兄さんや姉さんと一緒にバンコクの建築現場で働くんだよ。村の子どもたちはみなそうしているんだから」。 しかし、こうした窮状を跳ね返す奇跡が起こりました。 「ダルニー奨学金」を得たのです! この知らせを受けると、両親はもう何も言いませんでした。 |
パッサコーンさんは1993年から95年まで村の中学校に通い、その後さらに勉強を続けるため、クルンタイ銀行の教育ローンで、5年制のチャイヤプーム職業学校に入学し、そこで農業を勉強しました。 |
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【(特活)JEN】 ◆スリランカから届いた感謝の気持ち(2005/9/29) JENがココナッツ・ロープ作りの職業訓練活動を行ったスリヤワラナ村の参加者からJENの事務所にプレゼントが届きました。 自分たちで編んだココナッツ・ロープを使って作ったJENの文字の入りマットです。 この活動に参加できたことへの感謝の気持ちを表すため、全員で協力して作ってくれたということです。 世界に1枚しかないJENの名前入りココナッツ・ロープマットは、現在JENのスリランカ事務所に飾られています。丁寧に編まれたロープの1本1本から人々の温かい思いが伝わってくるようです。JENを通じて彼らを応援してくださっている日本の皆さんにも、心からの感謝をこめて。 |
【(特活)JEN】 新潟県川口町田麦山の被災者の方々が、スマトラ島沖地震の被災者支援のために募金を集めてくださいました。 (JENは田麦山の皆さまからの募金で、北部・キリノッチ(Kilinochchi)で支援活動を行いました。 |
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【(財)ジョイセフ】 ◆アフガニスタンへ届けられたフットサルボール |
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いつも当サイトを通じ、関西フットサル界の強豪チームを対象とした「フットサル大会」の参加費の全額を様々な団体へご寄付いただいている、日本空調サービス(株) キューズガーデンジョイナス様(関西フットサル施設交流会所属)より、関西のフットサル施設で使用しなくなったボール等のご寄付のお申し出をいただき、この度(財)ジョイセフを通じてアフガニスタンへ届けられ、アフガニスタンより写真が届けられました。 |
| かつてのタリバン政権下では、子ども達は自由にサッカーで遊ぶことは許されませんでした。 サッカーは西側文化の象徴として様々な制約があったほか、多くの地雷が埋められ、自由に走り回ることができなかったのです。 ※こちらのページで、より多くの写真及び大きな写真をご覧いただくことができます。 (2004/11/1) |
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| 【(社)シャンティ国際ボランティア会】 ◆タイ・バンコクのスラム地区から神戸へ、神戸からスラムへ支援 |
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1995年の阪神・淡路大震災の際、日本からの奨学金を受けていたタイ・スラムの貧しい地区の子供たちが、「日本の人々のために」と率先して募金箱を手に路地をまわり募金活動を展開。
スラムの住民たちは苦しい生活の中から自発的に募金を集め、2月初頭には、集まった120万バーツ(1バーツは約4円)約400万円を被災地神戸へ送りました。 急成長するタイ経済を底辺で支える彼らの収入は、最低賃金法の1日、145バーツを割ることさえあり、劣悪な労働条件と住環境の中にあります。決して楽ではない暮らしの中から、因果応報を信じる彼らは、「タイ人にとって苦しんでいる人を助けることが、即ち徳を積むことなのです」と義援金を神戸へ送ってくれました。 義援金は被災地で活動していたボランティア団体などに手渡され、主に親や家を失った子供たちを慰める催しや、臨時保育所を開くために使われました。 |
| そのスラムで、2004年4月23日、火災が発生。強風にあおられてほぼ全域が焼失。居住者8000人が家を失いました。社団法人シャンティ国際ボランティア会は、1985年に図書館を開設、87年には保育園(当時は託児所)を開設して、スラム住民の生活向上を支援してきましたが、その図書館も全焼、保育園も半焼しました。 火災のニュースに接した神戸では、スラムの人びとに「そのときのお返しをしよう」「九年前の支援を忘れられない。今度は被災地から思いを届けたい」という呼びかけで、募金活動が行われました。 (2004/5/1) |
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当時、生存者の治療にあたった医師たちは、治療費と薬代をすべて寄付し、完全なボランティアとして治療にあたりました。 現在串本町樫野には、異国の海に散った将士たちの霊を慰めるために建てられた「トルコ軍艦遭難慰霊碑」と、エルトゥールル号の模型や遺品、写真などが展示されている「トルコ記念館」があり、遭難当時の様子を伺い知ることができます。 |
| 【NGOアリーナ担当者より:感想】
このような素晴らしい実話が、なぜ日本で語り継がれていないのか、本当に不思議です。(ご存知の方も多いかもしれませんが、恥ずかしながら私はごく最近、知りました。) 当時の日本人は、社会的弱者や敗者へ涙を流す「惻隠(そくいん)の情」(武士道精神)を持ち合わせていたといわれています。 日本人の根底に流れていると思われるこれらの精神を、今後も探していきたいと思います。 |
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ここはかつて(1970年代中頃)、埋め立て寸前の、公然と大量のゴミが投げ捨てられ、ヘドロと悪臭にまみれた場所でした。 家庭から出るゴミ、土砂、鉄骨、コンクリート塊、廃材、かわら、ガラス、古タイヤ、冷蔵庫、畳、タンス、布団、自転車、オートバイ、墓石等、ありとあらゆるものが捨てられていました。 「子どもの頃あれほど大好きだった海が、これではあまりにかわいそうだ。」 うず高く積み上げられたゴミに立ち向かった、一人の青年がいました。 青年はヘドロの中でも生きようとする小さなカニの姿に励まされ、たった一人でゴミを拾い始めました。 |
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新聞配達の合間をぬい、雨の日も雪の日も、たった一人でただ黙々とゴミを拾い続けました。 【参考】
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| 【サステナ
マエキタミヤコさん】 部隊長であった彼は、まず仲間うちでしめしあわせ、敵を撃つときには、「相手の頭の上の、相手をはずしたところを狙え。」と命じました。そして逃げる時には建物の壁のあちらこちらに「WE
LOVE YOU」と書きました。そして敵とばったり出くわしたときには笑顔で手を振り走って逃げるという行動を取り、チラシを降らせて不戦の意志を伝えていきました。 その後1998年、政府とゲリラ軍は停戦合意し、鉱山会社は島から出て行きました。 笑いながら話す彼の目からは、ずっと涙があふれ出ていました。 ※ジェームス・タニスさんに会いたい方はこちらをご覧ください。 〜紛争のカタチの変化〜 ****************************************************** |